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インタビュー『MICO MAIが語るMICO MAI』

——多彩に活躍されていますが、アーティストになろうと思ったきっかけは?


幼い頃からクリアビジョンだったのですが、芸術家になるのは当然と思っていました。小学校卒業の時の作文に「何歳になったらパリでアートの大学に通う」といったプランが書いてありました。母が好きだったこともあり、オートクチュールの作品をまとめたものを絵本代わりに育っていましたね。インパクトある作品や強烈なデザイナーを当たり前と思って大きくなったところがあるかもしれません。学生時代に友人たちが「ガリアーノのキャラクターがすごい」「マックイーンの才能が抜きん出ている」と感動しているのをよそに、アートを志向する人はあれが普通じゃないかしらと思っていたのを覚えています。

——どんなお子さんだったのか、いい意味で想像がつきません。


8歳の頃、2年間にわたって月とばかり話をしていた時期があります。「なんで生きるの?なんで死ぬの?」を考え始めたらとまらなくなってしまって。武士の美学のように、自身が死ぬ明確なビジョンがしっかりあったんです。哲学者のようでもありますし、何かにどっぷり没頭するという意味では野性的でもある子供でしたね。輪廻転生のサークルに終止符を打ちたいと決心し、この人生が最高だったら転生しなくていいのでは?と思って吹っ切れたんです。本当の自分を取り戻したいと思い、無我夢中で生きている幼少期でした。

——セントマーティンズでパフォーマンス・デザインを専攻した理由を教えてください。


まずは大学でいう一般教養に当たる、ファンデーションコースをとりました。というのも、
ヨーロッパでは高校の段階で専門分野を選ぶので、美大に入学する時に現地の子は基本的なアートの知識が入っているんですね。アジア圏の学生はそういったコースがないケースが多いので、専攻を選ぶためにまずは基礎的な知識をファンデーションコースで学ぶんです。私はカナダの高校で写真をやっていたのですが、アートの勉強はすべて自己流だったので、アートの基本的な観方、考え方、哲学はファンデーションコースで身につけました。専攻を選ぶ際にウィメンズウエアも考えたのですが(CSMはジョン・ガリアーノをはじめとしたデザイナーを輩出していることでも有名)、かなりの競争率で精神的な苦しさを感じるようになりまして。同時にさまざまな出会いがあり、導かれるようにして、気づいたらシアターのコースに入っていました。



——美大のパフォーマンス学部では、どんな勉強をするのですか?

CSMのパフォーマンス学部はロンドンでも一番の歴史があり、レディ・ガガのセットや衣装を手掛けている卒業生もいます。この時は舞台衣装もセットも作りましたし、人が足りないからと駆り出されて出演することもしばしばでした。スーパースターを育てたいというのがコンセプトにある大学なので細かいテクニックはまったく教えてくれず(笑)、なんでもやってみろ、名を上げろ、と先生方から日々煽られましたね。ちょっと遅刻をすると先生から「どうせ結婚して専業主婦になるんでしょ」と非難されるような環境でしたので(笑)、常にハイな状態で戦っているような感じで私にはとても合っていました。舞台の衣装はもちろんセットを作るのも自分たちなので、鉄を叩いたり、マスクをして溶接したりというのは当たり前。発表が近くなると、工場で働く肉体労働者みたいでしたね。



——世界中からアートを志向する学生が集まる名門ですが、どんな学生時代でしたか?


人数の多い大学ですが、中でもパフォーマンスのコースは、世界中から集まった変人の巣窟と言われていました。才能やファッションセンス、ユーモア、個性がものをいう学部なんですよ。そんな中で私は乱世に生きている気分だったのでキレッキレで、友人たちから「尖りきった刀」と呼ばれるくらいでした。とにかく戦っている毎日でしたので、見た目も内面もただならぬ気配を放っていたようで、よく職質されていました(笑)。

——MICO MAIさんは独特のアイラインが印象的ですが、その頃にセンスが培われたんですね。


今のようなアイラインを引くようになったのは帰国してからなんですよ。私は目が丸いのでジブリのキャラクターっぽくて(笑)。もっとアーモンドアイにしたいなとここ10年ほど試行錯誤して、今のスタイルにたどりつきました。周囲からはミステリアスだと「ムーン・アイ」と呼ばれることがあります。学生時代はいわゆる普通のメイクはほとんどせず、するとしたらフェイスペイントや舞台メイクでしたね。

——現在の創作活動も幅広く、「アーティスト」「パフォーマー」といったカテゴリーに括れないスケールの大きさを感じます。


どんな活動にせよ、常にテーマにしているのはハッピーやラブです。幼い頃はアーティストになるしかないと思っていたこともありますが、現在は、どういった手段であれ、自分の内面にあるものをお伝えし、人々をハッピーに、より愛にあふれた毎日にするための活動がすべてアートだと思っています。


——そういった活動の1つとして生まれたインフィニティー・パフォーマンスについて教えてください。

これは深い瞑想の状態で、旋律に合わせて即興で表現する舞のことです。母でもあり、瞑想の師匠でもあるMASAYOと表現方法を模索するうちに生まれました。閉じているスペースを開くのも得意なので、インフィニティー・パフォーマンスを観ている方はもちろん、その“場”の浄化にもなります。あらゆる活動を通じて、ハッピーやラブを伝えていきたいと思っていいます。

——その舞を、寺院に奉納する機会もあったそうですね。

ご縁をいただき、滋賀県の竹生島にある宝厳寺に、2016年と2020年に奉納しました。弁才天の仏画も同時に奉納し、現在も収蔵されています。
仏画『Origin ~原点~』は大弁才天が竹生島に降り立ったのち、人々に希望と愛を与え導くさまを表現しました。大弁才天は元々ヒンドゥー教の水・芸術・学問の女神サラスヴァティーでした。昔は首から上が神道、下が仏教と言う自由自在な姿で古から伝わる原点のパワーを奉納作品として創りました。



——MICO MAIさんをご存知ない方のために、代表作について教えてください。


私が気に入っている作品のひとつに、戦神と花女神が1つになり、宇宙の花を開放したという
ストーリーの『Floral Fantasy』があります。土の時代が終わり、風の時代になり、2020年から世界はカオスに包まれました。そんな時代だからこそ、「自身の生き方を見直し」「私はいったい誰なのか?」「本当は何をしたいのか?」をテーマに、この作品を完成させました。人のためではなく、私自身のために。人生で初めて愛と喜び、そして安心を感じながら作った作品なのです。
これまでに自然の中で生みだしたパフォーマンス・ペインティング(作品)は100を超えますし、多くの人々を幸せに導いてきたという自負はあります。ただ、今思えば、本当の自分を見つけるために作品を作っていたんですね。その旅は極めて過酷で極限状態でしたので、心身ともに鍛え抜くことができました。パフォーマンス・ペインティングのおかげで私は私自身に出会うことができました。『Floral Fantasy』を生み出したことで、これからは大作以外は創らないと確信しました。また、今後の人生は愛やハッピーのためにインフィニティー・パフォーマンスを舞っていきたい、そう思うようになった礎のような作品です。

2021年秋個展『Floral Fantasy』@Foursesasons hotel Tokyo Otemachi開催の記念し、ハースト・デジタル・ジャパンラグジュアリーメディアグループの編集局長を務める十河ひろ美編集長をゲストに迎え、トークイベントを開催。
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